うだがわんの思考

人には言えない事を書きます

死ぬなら早めに

コロナの自粛期間と春休みが重なって口数も減り、最近言葉が喋りづらくなっている今日このごろ。今日も特に進捗は無い。とりあえず「神曲」「カフカ全集」「罪と罰」の三つを並行して読み進めていきたいと思う。「虐殺器官」を読んでいた頃は「神曲」と並行して読んでおり、無宗教と宗教を同時に読むのはなかなか面白い。

 

このタイトルだと重病等で長く生きられない人の気持ちを考えろとか思われそう。ただこの記述は前提として「宇田川の思考」というユーザーネームの元、自分の思ってることを率直に述べていくスタイルなのでまあそういう人もいるよね〜感覚で見てください。

 

ふと部活内のトークで聞かれた。「何歳まで生きたい?」

 

この時俺は咄嗟に30歳くらいと答えた。これは昔から決まっていた考えで、あまり人生に長期的な寿命を望んでいない。別に人生に絶望したとか将来に行き詰まったとかそういう大きな壁に阻まれたからこういう考えを持っているわけでは無い。単純に30歳以上生きる理由が見つからないからだ。逆に30歳まで生きたい理由は教職員として職務を一定数全うしていたいという願望があるから。30という数字に拘っていない。ただ40は少し老けすぎたなと感じるし20は逆に若すぎるしなんなら今死ななければならない。だから間をとって30に設定した。教職の夢が絶たれたら麻縄を手に取るか筆を手に取るかその時の自分の生きる力が決めるだろう。

余談だが義務教育の授業では一貫として「生きる力」を育むように編成されている。自分を含めて死にたいと思う人が一定以上いるのなら義務教育の敗北だろうなとたまに思う。

このトーク内で咄嗟に彼女や妻がいたら話は変わるかもしれないと言ってしまったので、質問した人はきっと彼女が欲しいからでた戯言だと捉えただろう。

少し違う。彼女は確かに居て欲しいが、欲は最近専ら薄れている。パートナーの存在は自分が生きることに一人責任を負わせる状態に陥っていると考える。これは結婚の場合も然りで、自分の死が一人の女性に大きな精神的ダメージとなって襲いかかるからである(パートナーの思考は除外する。それを知ることは誰にも永遠に無い)。だから簡単に死にたいとは言えないし、死にたいとも思わないだろう。つまり責任を持ってその隣に居続けることが生存理由となるから「話は変わるかもしれない」と言った。